グリーンカード狂騒曲

アメリカで就職活動をした方なら絶対に体験しているもの、それはVISAの壁である。これだけで一晩中語り合えると思う。凄いいい会社だ!、などと思って募集要項を見たら、VISAをスポンサーしない旨が書いてあったり、明確に書いていなくても全然留学生をとっていない企業であることを後で知ったり、何度苦汁をなめたかわからない。臥薪嘗胆とはまさにこのことで、そのたびに僕は異常なほど魂を燃やし、こんなものに負けるかと思ってきた。徒手空拳でアメリカで生きる身として、絶対に負けられない戦いだった。VISAのスポンサーをゲットしても、H-1bの抽選、そして永住権までにはPERMのApproval、無駄にひっかかる結核検査、など様々な障害が横たわる。入社直後にこれらを調べた際は、本当に気の遠くなる道のりだと思うとともに、せめて仕事はしっかりして評価されよう、と心に誓ったものであった。

しかし、あの日以来、僕は変わってしまった。そう、グリーンカードを手にした日である。郵便受けを見たら、何の変哲もないプラスチックのカードが入っていた日。まぁグリーンと言えば言えなくもないが、なんとなく全体的にぼやっとしたデザインのカードである。最初は喜びに震えあがり、Welcome to the United Statesを熟読したものの(SSS - Selective Service Systemへの登録が必要と勘違いしてドタバタしたりした)、会社での就労根拠をグリーンカードに切り替えて以降はその出番は殆どなく、数週間後には家のクローゼットの肥やしと化した。もはや海外出張するときくらいにしか出番がない。更新を忘れる可能性すらある(蛇足にはなるが、国籍をどうするか、というのは悩ましい問題である。二重国籍を認めない国の中でも、例えば韓国やインドは、過去に当地の国籍を持っていた人であれば簡単に永住権のようなものを申請することができるため、米国籍に切り替える人が多ようだ。日本にはおそらくこういったシステムはないだろうし、国籍の放棄は重い問題となる)。安心、安寧は人をダメにする。僕は薪に臥して肝を嘗める代わりに、ソファーでポテチをダイエットコーラで流し込みながらダラダラとYouTubeを見る生活に慣れていった。

これではいかん、と今日は思い立ったため、過去のメールなどを遡りながら、時系列で当時のプロセスを振り返り、あの時の気持ちを思い出したいと思う。極めて個人的な振り返り、かつ、今とはおそらくプロセスが若干違うことから、読者諸氏におかれては余り参考にならないかもしれないが、僕の皮下脂肪の減少と幸せな家族生活を思って、どうかお許し願いたい。(尚、一部メールや書類が見つからないので記憶をたどって書いている)

X年11月初旬: とりあえずグリーンカード申請の準備を始める。社内の規約を確認し、関係各所から必要な承認をもらい、社内プロセスをスタートする。
X年11月下旬: アサインされた弁護士事務所から連絡が来る。Masterの学位があることから、EB2カテゴリーでI-140 (Immigration Petition)/ I-485(Status Adjustment)の同時ファイリングになることがわかる。PERMなるものを労働局から取得することがまず最初の一歩らしい。
X年12月中旬: その後特に連絡がないため弁護士事務所に問い合わせ。当然連絡はない。H-1bの時の経験で僕は既に移民法弁護士事務所の動きの遅さに慣れていたため、クリスマス休暇にでも入ったに違いないと考えて放っておくことにする。
X+1年3月旬: PERMを申請した旨の連絡が突然入る。仕事が忙しく、すっかりグリーンカードを申請していること自体忘れていた。Auditというプロセスに入ると半年から一年くらいプロセスが遅れると教えられ、震える。
X+1年8月中旬: PERMがApproveされた旨の連絡がはいる。一安心。
X+1年8月中旬: いきなりとてつもなく長い準備書類リストと気が遠くなりそうな入力フォームが送られてくる。これは事前に言ってくれれば年末日本に帰ってとってきたわ!というものが多数(戸籍抄本や学部時代の成績表など)でげんなり。日本の家族に電話して書類を集め始めてもらう。
X+1年8月中旬: 健康診断を受けねばならないことを発見し、準備を始める。MBA来るときに予防接種などのレコードを出したので余裕余裕、などと思っていたところ、紛失したことが判明し青ざめる。とりあえず母子手帳があればなんとかなるだろう、と思い実家に電話をする。"アンタMBAに行くときにもっていってそのままじゃない"-終わった。台湾人のチームメイトに聞いて評判のよかった中華系ドクターCとのアポイントメントを入れる。
X+1年8月下旬: 事情をドクターCに説明したところ、"まぁもうそれなら予防接種打っちゃえば?痛いけど死にはしないよ"と大笑いされるが、注射が大嫌いな僕としては全然笑えない。ツベルクリン反応検査と血液検査も必要とのことで、散々である。打たなければいけないワクチンの種類を教えてもらい、近くのドラッグストアで打つ。無茶苦茶痛い。検査ラボで血も抜かれる。今まで生きてきて一番沢山注射針を刺した一週間であった。
X+1年9月初旬: ドクターCが悲しそうな声でツベルクリン検査が陽性であった旨を告げてくる。日本人は陽性が出る可能性が高いとインターネットで読んだので、予想済みであった。胸部レントゲンを撮ることになる。マネージャーにツベルクリン陽性であった旨を告げると本気で心配され、オフィスに来ないことを提案される。結果は陰性で、画像はドクターCのもとに送られた。
X+1年9月中旬: ドクターCと二回目の面談で、健康診断の証明書類を作る。
X+1年9月下旬: 実家から書類が届く。すべての書類がそろったため、I-140とI-485をファイルする。ついでにAP+EADのコンボカードも申請。プロセスが終わるのは、結局はI-485がApproveされる日にひっぱられるため、I-140はPremiumではなく通常のファイリングで出すらしい。
X+1年10月初旬: 申請を受け取った旨のレターが移民局から届く。
X+1年11月初旬: 移民局から指紋を取りにいらっしゃいとのお誘い。
X+1年12月初旬: 移民局にて指紋を取る。
X+2年1月中旬: AP+EADが承認され、コンボカードが到着。当時は海外出張のない部署だったのと、わざわざ海外で休暇を取ろうという発想もなかったため、特にもらった意味はないことに気づく。
X+2年3月中旬: I-140が承認される。
X+2年5月下旬: I-485が承認される。

合計1年半に亘るプロセス。ほぼ全般にわたって順調だったとは思うものの、書き出すだけでも結構大変だったし、当時の落ち着かない気持ちを思い出した。せっかくこれだけ苦労して手に入れたのだからもっと頑張らねば、と思うに至りました。

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